「この後、どうしよう……」
恋人のこの一言で我々のチェックインまでの予定が現時点で終了したことを悟った。まだ午前中でチェックインまで4時間以上。先述したように彼は東北出身で、そもそも神奈川に住んだことすらないのだ。まさか大涌谷がこんなに寒くて意外と見るところがないなんて思わなかったのだろう。
明らかに困っている。恋人の誕生日をお祝いするためにあんなに張り切って楽しそうにしていたというのに。どうにかしなければ。
箱根の観光地は大抵行ったことがある。お気に入りの美術館に彼を連れて行くか…?芦ノ湖で遊覧船にでも乗るか…?箱根神社でお参り…?あ、大涌谷にある箱根ジオミュージアムは入館料100円だけどかなり見応えあって良いんだよな…いやでもさすがに4時間はキツイなぁ……色々と考えたがどれも正解ではないような気がした。
ふと思いついた。ずっと行きたくて、でも行っていないところがある。誕生日特権で連れて行ってもらおう。
「水族館に行きたい!」
恋人は少しほっとした顔をした。そういうわけで我々は大涌谷を後にし、日本一標高の高い水族館、箱根園水族館に向かった。
箱根園水族館は芦ノ湖の湖畔にある山の中の水族館である。車を持っていない私が行こうとすると、電車を乗り継ぎ箱根湯本駅まで行き、そこからバスで1時間以上の道のりとなる。箱根はいつでも行けるか、と思っていたが、意外と機会がなかった。渡りに船だ。
水族館に着き、私はもちろん「アザラシフィーディングタイム」の時間をチェックした。午後のフィーディングタイムが約1時間後。最高だ。箱根の神様に感謝した。
それまでは館内をゆっくり見回ることにした。規模としては小さいが静かでゆっくりと生き物たちを見ることができて、私は好きな雰囲気だった。
箱根園水族館のあざらしの展示は男鹿水族館と似ていて、大きな水槽を屋内で横から見ることができる「水中観覧室」と、屋外でその水槽を上から見ることができる「アザラシ広場」の2つだった。フィーディングは「アザラシ広場」で行われるとのことであった。
水中観覧室に入ると、大きな水槽であざらしたちが泳ぎ回っていた。淡水に住むバイカルアザラシと海水に住むゴマフアザラシが同じ水槽で展示されているという珍しいスタイルだ。そのためか水槽の内装、というのだろうか、デザインがどことなく海ではなく湖を連想させた。芦ノ湖の湖畔にある水族館だからなのかもしれないが。

水槽を泳ぐかわいいあざらしを写真に収めたかったが、泳ぐスピードがそこそこ早いので私の技術では「灰色の紡錘形の何か」になってしまった。いつものことなのであとは自分の目でじっくりあざらし達を見ることにした。
フィーディングタイムの時間が近づいてきた。入場時配布されたパンフレットによると、フィーディングタイム後に有料、先着順であざらしにご飯をあげることができるイベントが開催されるとのことであった。恋人は私にその餌やり体験をさせてあげようと張り切ってくれていたが、小さなお子さんを押し除けて先着順の参加権をもぎ取る勇気は私にはなかった。小さい子が一生懸命あざらしにご飯をあげているところをそっと眺めさせてもらえれば十分だ。きっとどっちもかわいい。
そんなこんなしているうちにフィーディングタイムの10分前になったため、我々は階段を登り、アザラシ広場に向かった。
誰もいなかった。
もちろんアザラシ達も水中を泳ぎ回っているため、いなかった。5分ほど待っても誰もこなかった。広場はとても静かだった。確かに時期が時期のため水族館内もそんなにお客さんがいたわけではなかったが、初めは「えー!みんなあざらし見たくないの?!」と思っていた気持ちが「本当にここでやるのか…?」に変わってきた。恋人も露骨に心配していた。
すると小学生くらいの男の子がやってきた。私たちは少し安心したが、少年はサッと不安そうな顔になった。「芸能人格付けチェック」みたいだな、と思った。彼は2人の大人しかいない広場を見渡すとスマートフォンを取り出し電話をかけ始めた。「ねえ!アザラシのところ全然人いないんだけど!本当にここ?!」おそらくご両親どちらかに電話したのだろう。何かあっても行動できる聡い子だ…と感心した。
隣で痺れを切らしていた恋人は館内のスタッフに本当にここでやるのか、と聞きに行こうとしていた。SNSで出てくるアザラシ達の写真の背景がどう見てもここなので、大丈夫だよと引き留めた。あざらしはこの水槽にいるんだから、他のところには行けないでしょう、と伝えると彼も納得したようだった。
開始時間が近づくと一気に人がやってきた。皆寒い時にわざわざ屋外で待つなんてことしないのだ。そして飼育員さん達が登場し、お待ちかねの「アザラシフィーディングタイム」が始まった。
続く
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